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  • 2013.09.29 Sunday
  • -

HP開設しました。

今後ブログは、Rody's Bullets Journalのページで更新いていきます。

2013年9月22日 歌舞伎町








Kids Are Alright








2013年9月22日 東京大行進






















路上から東京大行進を想う




 東京って街は路上写真家にとって最高の街だ。
本当に色んな奴がいて、小さな幸せの中で生きている。


新宿にて



新宿にて



新宿にて



新宿にて


俺は右傾化が囁かれる此の国で、これからもこんな写真を撮っていきたい。

9月22日新宿にて差別に反対するデモ [東京大行進]があります。













2013年9月8日 新大久保 奴らを通すな!




2ヶ月ぶりに新大久保で[行動する保守]による排外デモが行われたのでカウンターの取材に行ってきた。


デモ出発は12時の予定だったが、8時にはカウンターの人達が厳重な警備を警戒してデモ出発地である大久保公園に集まり始めていた。
同時刻、機動隊による公園周辺の道路の封鎖が始まり、9時には公園周辺にいた人達の強制排除が行われた。



第二、第五、第七、第九と特別機動隊の五隊が警備にあたり、いつものドンキホーテ前はデモ出発まで2時間もあるというのに機動隊とカウンターの競り合いで騒然としていた。
あまりの理不尽な警察の対応にシットインする者も出たが、抵抗むなしくデモ隊が職安通りへ出る地点を警察にあけ渡す事となった。



デモ隊を職安通りへ通してしまったカウンター勢は何としてでも大久保通りには通さないぞと警備の隙をつき、明治通りと大久保通りの交差点からシットインを始めた。



機動隊に、引っこ抜かれては後ろに周りと必死の抵抗を見せる。



日本の歴史上デモを市民が止めた事はまだ無い。


No Pasaran!







2013年8月15日 それぞれの靖国





参拝に来ていた櫻井よしこ氏


Nikon FE2を持っていた岸さん。昭和15年に35mmのカメラを買ったが、当時はフィルムが手に入らず、あの焼け野原を撮っておきたかったが写真は撮れなかった。やっとフィルムが手に入ったのは昭和22年、映画用のフィルムを使ったんだよ。と話してくれた。


Nikon FM3にf1.2のレンズを着けたおじいさんともカメラ談義に花が咲いた。写真撮らせてと言うと普段撮られる事はあまりないらしく喜んでくれた。


88歳のお父さんは戦地から帰って来たところで終戦を迎えたが、南方で玉砕した兄に会いに来ていると話してくれた。


仲間と歌をうたっていたおじさんたち。ピース。


街宣前の鳥肌実氏。靖国神社近くのファミレスにて。


反天連のカウンターに来ていた右翼団体。


反天連の人の首根っこを抱え込む右翼の人。


それぞれの靖国・・・。








2013年8月6日 核武装推進デモ in 東京

8月6日、在日特権を許さない市民の会が東京で核武装推進デモを行った。
 
8月6日にデモを行う事や、被爆者特権とか訳の分からない事を言っている事などに対して、今まで一緒に排外デモを行って来た仲間からもtwitterなどであからさまな批判が出る中、平日の昼間ということもあり、参加者は50人程度だった。


在特会会長



反日国家とやらの核の脅威に怯え、核武装を8月6日に訴える愛国者様たち。





デモ終了後、在特会会長は自民党本部に核武装推進の嘆願書を持って行ったが、こちらで確認したところ警備主任が受け取り、自民党は対応していないとの事。











2013年8月6日 我道会 アメリカ大使館抗議行動

ちょくちょく撮影をさせてもらっている我道会会長山口祐二郎氏が、1945年8月に原子力爆弾を広島、長崎に落としたアメリカに対し抗議をしにアメリカ大使館へ行くと聞いたので撮影させてもらった。


アメリカ大使館の目の前で抗議をしようとして警察官に止められる山口氏



制止を無視し拡声器でがなる。



30名ほどの公安に見守られるなか同会の手塚氏初めての街宣。



JT本社ビル前にて。







8月6日への想い。


いま、8月6日を迎えて周りの人を見ていると原爆被害者追悼の日としている人が多い事に、正直少し違和感を覚える。

終戦から10年後の1955年8月、第一回「原水爆禁止世界大会」が開催された。
前年の3月に、ビキニ沖で第五福竜丸がアメリカの水爆実験の犠牲になった事件を受け、杉並区の魚屋さんが署名運動を始めたのがきっかけとなり始まったこの大会は、紆余曲折ありながらも今年も行われている。
一番近くで原水爆禁止運動が生まれていくのを見ていた、その魚屋さんの娘さんの竹内ひで子さんに少し前に話を聞いていたので、ここに書いてみることにした。

反原発デモに来ていた竹内さん



竹内さんのご両親、菅原夫妻。


俺が生まれ育ったのが杉並ということもあり、子供の頃から原水禁運動は杉並区の魚屋のお母さん達が始めた運動だと聞いていた。
なので、竹内さんのお母さんが始めたと思って話を聞きにいったのだが、実はお父さんが杉並の魚商組合で話をまとめ、杉並区長に陳情書を持っていったのが始まりだったそうだ。


杉並区への陳情書。1954年3月14日に第五福竜丸が焼津港に帰還し事件が発覚、そのひと月後には陳情書を提出している。


この陳情書には、 「死の灰が我々魚商に第五福竜丸の23人の乗船員と同時に死に至らしむる程の被害を与えています。」というような魚商の苦しさを訴えた文章の後に、
我々は日本政府並びに米国政府及び関係諸官庁に次の事を要望します。
一、この窮状を打開するため、つなぎ資金をすぐ融資してください。
二、転業の為の資金を長期、低利で融資して下さい。
三、特に生活困窮者に対しては、生活保護、医療保護を即時適用して下さい。
四、所得税、事業税、区民税等を免除するよう取り計らって下さい。
五、沿岸漁業が自由に出来るよう、九十九里をはじめ、先祖伝来の統べての漁場を日本人に返してください。そして、魚を安く、大量に杉並区市民のために売れるようにして下さい。
六、魚屋のため、いや、日本人の食生活確保のため、水爆、原爆の実験は即刻とり止めて下さい。
七、この死の灰による被害は、全部、米国政府で補償して下さい。
八、一日も早く各国と平和な取り極めをして、北でも南でも自由に魚の取れる様にして下さい。
九、人類の破壊を来す原爆、水爆を禁止させるため、全力を尽くして下さい。
とある。


当時の署名。





署名や当時の写真などと共に両親への想いを語る竹内さん。





当時の写真もいくつか見せていただいた。生きていくため生活するために必死に訴えたのであろう。




先の陳情書に「この死の灰による被害は、全部米国政府で補償して下さい。」とあったが、アメリカは保証金は一切支払わず、慰謝料として200万ドル(当時のレートで7億2千万円)を日本政府に支払うことで手打ちとなった。
ちなみに漁業関係者の被害総額は24億円程とされている。そして、第五福竜丸の乗船員にはそこから1人あたり200万円が分配されただけである。
元乗船員の大石又七さんも言っていたが、1956年に日本原子力研究所が発足した背景に第五福竜丸の事件があった事など安易に想像がつく。

世界各地で水爆実験が行われていた時に産まれたゴジラはいつのまにか正義の味方になり、鉄腕アトムが原子力の平和利用、明るい未来をうたっていた。
そうやって、安全神話は娯楽とともに植え付けられ今を迎える訳だが、放射能に汚染されたこの島で8月6日に黙って目を瞑っていたらまた、敵にヤラレるよと思わずにいられない。







岡本太郎記念館にて。アトリエのピアノの譜面台に飾られた明日の神話。



2013年8月4日 拉致被害者全員奪還・国民大行進IN浅草


拉致被害者全員奪還を訴えるデモを撮影しに浅草へ行ってきた。
排外デモに参加する人々が多く来るデモだが、拉致被害者奪還がデモのテーマということもあり、カウンターも少数でそのほとんどが、ただ監視に来てるという感じだった。
数人がカウンターの人を見て興奮し、ヘイトをまき散らす場面も見られたが、終止ヘイトとは無縁のコールの中で行われていた。


拉致被害者を返せと訴える「行動する保守」


デモ後、主催者によりデモの趣旨を著しく阻害する言動、行進を行っていたとして1名が今後このデモへの参加を禁止するとアナウンスされた。






  


  


  
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