いま、8月6日を迎えて周りの人を見ていると原爆被害者追悼の日としている人が多い事に、正直少し違和感を覚える。
終戦から10年後の1955年8月、第一回「原水爆禁止世界大会」が開催された。
前年の3月に、ビキニ沖で第五福竜丸がアメリカの水爆実験の犠牲になった事件を受け、杉並区の魚屋さんが署名運動を始めたのがきっかけとなり始まったこの大会は、紆余曲折ありながらも今年も行われている。
一番近くで原水爆禁止運動が生まれていくのを見ていた、その魚屋さんの娘さんの竹内ひで子さんに少し前に話を聞いていたので、ここに書いてみることにした。
反原発デモに来ていた竹内さん
竹内さんのご両親、菅原夫妻。
俺が生まれ育ったのが杉並ということもあり、子供の頃から原水禁運動は杉並区の魚屋のお母さん達が始めた運動だと聞いていた。
なので、竹内さんのお母さんが始めたと思って話を聞きにいったのだが、実はお父さんが杉並の魚商組合で話をまとめ、杉並区長に陳情書を持っていったのが始まりだったそうだ。
杉並区への陳情書。1954年3月14日に第五福竜丸が焼津港に帰還し事件が発覚、そのひと月後には陳情書を提出している。
この陳情書には、
「死の灰が我々魚商に第五福竜丸の23人の乗船員と同時に死に至らしむる程の被害を与えています。」というような魚商の苦しさを訴えた文章の後に、
我々は日本政府並びに米国政府及び関係諸官庁に次の事を要望します。
一、この窮状を打開するため、つなぎ資金をすぐ融資してください。
二、転業の為の資金を長期、低利で融資して下さい。
三、特に生活困窮者に対しては、生活保護、医療保護を即時適用して下さい。
四、所得税、事業税、区民税等を免除するよう取り計らって下さい。
五、沿岸漁業が自由に出来るよう、九十九里をはじめ、先祖伝来の統べての漁場を日本人に返してください。そして、魚を安く、大量に杉並区市民のために売れるようにして下さい。
六、魚屋のため、いや、日本人の食生活確保のため、水爆、原爆の実験は即刻とり止めて下さい。
七、この死の灰による被害は、全部、米国政府で補償して下さい。
八、一日も早く各国と平和な取り極めをして、北でも南でも自由に魚の取れる様にして下さい。
九、人類の破壊を来す原爆、水爆を禁止させるため、全力を尽くして下さい。
とある。
当時の署名。
署名や当時の写真などと共に両親への想いを語る竹内さん。
当時の写真もいくつか見せていただいた。生きていくため生活するために必死に訴えたのであろう。
先の陳情書に「この死の灰による被害は、全部米国政府で補償して下さい。」とあったが、アメリカは保証金は一切支払わず、慰謝料として200万ドル(当時のレートで7億2千万円)を日本政府に支払うことで手打ちとなった。
ちなみに漁業関係者の被害総額は24億円程とされている。そして、第五福竜丸の乗船員にはそこから1人あたり200万円が分配されただけである。
元乗船員の大石又七さんも言っていたが、1956年に日本原子力研究所が発足した背景に第五福竜丸の事件があった事など安易に想像がつく。
世界各地で水爆実験が行われていた時に産まれたゴジラはいつのまにか正義の味方になり、鉄腕アトムが原子力の平和利用、明るい未来をうたっていた。
そうやって、安全神話は娯楽とともに植え付けられ今を迎える訳だが、放射能に汚染されたこの島で8月6日に黙って目を瞑っていたらまた、敵にヤラレるよと思わずにいられない。
岡本太郎記念館にて。アトリエのピアノの譜面台に飾られた明日の神話。